吉見町御所横見神社>埼玉の神社>古社巡拝録

御所・横見神社
ごしょ     よこみじんしゃ
 
 ご祭神 
建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと)
櫛稲田比賣命(くしいなだひめのみこと)

 鎮座地 埼玉県吉見町御所1
 参拝日 2015.6.09

<由緒>

下段に詳述














三峯神社

稲荷神社




<参拝メモ>

御所の地名は、平安時代から中世にかけて吉見を領有した
吉見氏の居館が地内に築かれ、人々がそれを
「吉見の御所」と呼んでいたことから名付けられた
その吉見氏は、源頼朝の弟、範頼の子孫で永仁四年(1296)まで
四代にわたり当地を支配した。
当社は、吉見丘陵の東端部に近い麓の平地に鎮座している。
付近には、古墳時代後期の集落跡である稲荷前遺跡があり、
当社も同時期の古墳の上に築かれている。
境内末社である稲荷社も「稲荷塚」と称する御所古墳群の上に鎮座しており、
当地は、これら遺跡の発見から低地開発が古墳時代から
始まっていたことが明らかとなっている。
社伝によれば創建は和銅年間(708−15)である。
延喜式神明帳に載る式内社で、旧吉見郡三社のうちの一社である。
その中で最も早い列格は田甲の高負彦根神社で、
宝亀三年(772)の太政官符にみえる。
したがって、当社はその後に列した官社である。
旧群の式内三社は狭い地域に集中しており、
当地一帯が朝廷から重視されていたのがわかる。
中世に至ると、吉見氏が衰退し、以後は有力支配者が姿を消してしまい、
当地は名主などの有力農民の層の管理に移る。
その混乱期の中で当社は飯玉氷川明神社と社号を改称している。
飯玉は、江南町の飯玉神社の由緒に説かれるように、
飯は炊いた米、玉は魂・霊の意で穀霊信仰を表している。
『風土記稿』には、当社は上細谷村の項に記されているが、
「御所村の持にして」とある。
これは、行政区域の変更によるもので、上細谷村域となった時期にも、
旧例により御所村民の管理が続いたのであり、鎮座地は移動していない。
後に社号が旧に復しており、『郡村誌』は横見神社と記している。
明治七年に郷社に列格した。
なお、明治五年ごろ、境内末社として稲荷神社が創建された。
一説には、古墳群(稲荷塚)のためにその上に建立したと伝える。

「埼玉の神社 埼玉県神社庁」より抜粋


(駐車スペース有)



     
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