<由緒> 当社は内陣に赤色紡錘形の自然石(一b五〇a)を祀る。 旧社家木下家文書『石上大明神縁起序』に「当社の由来は、当地には古くから氏神様と呼ばれる 塚があり、周囲に大きな淵があった。嘉元二年九月淵の中に夜な夜な光があり、村人が 不思議に思って見ると魚が多く集まっている。網をおろすと魚は掛からず小さな石が上がり、 これを本山修験広伝寺が占ってみると、この石を氏神として尊崇すれば氏子が繁栄するという。 村民はこの石を氏神塚上に祀り、広伝寺は石に因み宝石山の山号をつけて別当となる。 それまでは村中を大河が流れ農耕に支障があったが、村人が氏神に祈ると、或る時大水になり、 流れは南に変わり百姓も繁栄し、寺も川の跡に移って隆盛になった。今の神体はこれである」と記す。 また、同家文書『勘化帳』(文久二年八月)には右の説話のほかに、「日本武尊東夷平定の時に 神体石を蝦夷より持ち帰って祀る。役行者伊豆配流の時に一樹を植えて神と祀る」などが記され、 また「秀吉の小田原攻めにより社が焼失し、その後長く社殿を再興できなかったため、 氏子は恐れ多いとして以来家の厠に屋根を葺かず、安永年間までこれを守ったという。 安永年中神祇官領に願い社殿を設け、石神を石上大明神と称えて、 以後厠に屋根を葺くようになった」とある。明治五年村社となる。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より |
<参拝メモ> 文久二年八月の『勘化帳』に、「鎮守の儀は子安撫育の守護神なる故に 女人参詣弥増」とある。 神体の石は初め小石であったが、現在は一b余りであり成長する石から 子育信仰が生じたという。 社殿前のビャクシンの大木が見事だった。 宝袋が三つ並んだご神紋は珍しい。 神宝の石と関係があるのだろうか (駐車スペース有) |