<由緒> 当社の創建の年代は不明であるが、古老の談によれば、往古当地は 大和田と称していたが、永承年中(1046−53)、源義家が奥羽征討の途中、 笹の生い茂る窪地に軍扇を奉鎮して武運長久を祈願したことにより篠久保(ささくぼごう) とよばれるようになったという。この時、義家は軍扇を現在の尾ヶ崎と笹久保の 境の辺りにあった桑の木の株に立てかけたといわれ、以来笹久保では軍扇、 尾ヶ崎ではその桑の木の株を神体として、共に八幡宮を祀ってきた。 『風土記稿』尾ヶ崎村の項には、「八幡社 村の鎮守とす、久伊豆及び稲荷を相殿とす 村持なり」」とある。しかし、江戸時代から神仏分離までの間、同社の祭祀には 隣接する勝軍寺が深くかかわっていたらしく、明和四年(1767)の銘文のある 本殿の礎石には、氏子の連名と共に勝軍寺の名が刻まれている。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より |
------------------------- ------------------------- 嘉永5年1852)建立 流れ尾形狛犬 隣接する勝軍寺 |
<参拝メモ> 当社は「鳩八幡」とも呼ばれ、幕や紋に付される神紋は鳩が「八」の 字形に向かい合った姿の図柄である。 これは、当社では「鳩は八幡様のお使い」とされてきたものによるもので、 今でも尾ヶ崎では、鳩を殺したり傷つけることは禁忌とされる。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より 両部鳥居と本殿は塗り替えられて、それほど年数が 経ていないのだろうか。 朱色が鮮やかだった。 また、鳥居に掲げられている八幡宮らし社号額も立派で、 額上の軍扇の由来も、「由緒」により納得。 (駐車スペースあり) |