熊谷市妻沼・大我井神社>埼玉の神社>古社巡拝

大我井神社
おおがいじんじゃ

 ご祭神
伊弉諾命(いざなぎのみこと)
・伊弉冉(いざなみのみこと)


 
 鎮座地 熊谷市妻沼1480
 参拝日  2014.9.18

<由緒>

鎮座地は、利根川右岸に半島状に突き出た自然堤防上にある。
周囲は低地で、太古、利根川が氾濫した折に大海のようになり、水が引くと
大きな沼が二つ残った。古代の人々は、上の沼を男沼、下の沼を女沼と呼び、
これらの沼には水の霊が宿ると信じた。
このため、この二つの沼を望む自然堤防の突端に社を設け、季節ごとの祭祀を行った。
この社とその周辺は、巨木が林立し昼なお暗い森を形成していた。
森は、現在の「大我井神社」「聖天山」の境内地を合わせたほどの広さで
大我井の森と呼ばれる神域であった。
奈良期、当地一帯に入植した渡来人は、この大我井の森に白髪神社を祀った。
白髪神社は。『延喜式』神名帳に登載された幡羅郡四座の内の一座である。
平安後期、利根川右岸は開発が進み、現在の妻沼町とその周辺を含む長井荘が誕生した。
長井荘の荘司である斎藤氏がこの地を得たのは、前九年の役(1051)で戦功のあった
実遠からで、以後、実直・実盛と三代にわたり勢威を振るった。
殊に、実直の養子に入った斎藤則盛の子である実盛は信仰篤い武将で、
治承三年(1179)に日ごろから守護神として身近に置いた
大聖天歓喜院を祀る聖天社を大我井の森に建立した。
以後、聖天社は長井荘司の信仰する氏神として荘民からも崇敬を受け、
次第に長井荘の総鎮守として発展していった。
この時期、白髪神社の信仰は既に衰退し、かろうじて社名のみを残す社となっていた。
その後、聖天社は幾多の変遷を経て室町後期、成田郷を本貫とし、
忍城主となった成田氏の保護を受けた。
これは妻沼の地が成田氏所領の内の騎西領に属し、庶民の崇敬を受けていたからである。
天正十八年(1590)、小田原の北条氏に与力した成田氏の居城である忍城は、
豊臣旗下の石田三成に攻撃され落城した。
このため、聖天社は成田氏の保護から離れ、
代って関東に移封となった徳川氏の支配に組み込まれた。
慶長九年(1604)に家康は社伝を造営するとともに五〇石の朱印地を寄進した。
慶応四年((1868)から全国諸社に神仏混淆を禁じるため、神仏分離令が布達された。
聖天社禰宜は、このような時流に乗じ、別当・社僧・社守修験を廃し、
純然たる神社として祭祀を行うことを主張し、歓喜院と係争に及んだ。
しかし、由緒ある聖天社の運営について長く係争することは崇敬者のためにも良しとせず、
別当・禰宜・村役人立会いのもと明治元年十二月、和解が成立した。
「議定書」によると、聖天社境内のうち妻沼宿並びに往来の東側に新たに分離独立した
伊弉諾命・伊弉冉命を祀る二柱神社を再興し、禰宜はこの社の祭祀に専念すること、
聖天社そのものは「聖天山」と改称し、以後寺院として歓喜院が運営すること、
従来の崇敬区域である妻沼村ほか二八か村は、二柱社の氏子並びに
聖天山の永代講中とする、とある。
聖天山から分離独立した二柱神社は、明治二年、
社名を古代から神の坐す大我井の森にちなみ、大我井神社と改称し社殿が造営された。


「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より















富士浅間

俳句碑







<参拝メモ>

聖天院東、至近のところに鎮座している。
聖天院は、近年彫刻が修繕され、見事な彩色が蘇った。
訪れる人も多く、賑わっているが、この神社まで参拝に来る人は稀である。
江戸時代の俳人であり、画家でもあった与謝蕪村が
この地を訪れていたことは、初めて知った。
その縁からか、俳句を嗜む人が多いようで、
境内に立派な句碑が建っていた。





(駐車スペース有)





   
TOP
  INDEX



inserted by FC2 system