熊谷市・奈良神社>埼玉県の神社>古社巡拝録
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《由緒》 社伝によると当社は、 下野国の国造の任を終えた奈良別命が、武蔵野の尾花の原(当地)を開いて美田となし、 奈良郷の基を築いたことから、命が亡くなると郷民がその徳を偲んで建立し、 祀ったものであるといい、また当社東北一㌖のところにある横塚山と呼ばれる 前方後円墳は、奈良別命の墓所であるという伝承がある。 「埼玉の神社」埼玉県神社庁発行 より 由緒詳細は下記へ |
拝殿脇壁の竜の彫り物 国魂神社、八坂神社、怡母社、金山社、天 神社、伊奈利社・・、 堅牢墜神 堅牢地神のことか 忠魂碑 箱根大権現 平成26年建立 炎尾形狛犬 |
≪参拝メモ)≫ 奈良別命については『国造本記』に、仁徳天皇の御世、崇神天皇の 第一皇子 豊城入彦命四世孫に当たる奈良別命が初めて下野国の国造に任命されたことが記されている。 『文徳実録』の嘉祥三年(850)五月十九日条によると、当社は先の慶雲二年(705)、 陸奥国の蝦夷反乱に際し神威を発揮したことにより、式内社に列したとある。 これは、武蔵国が東海道所属となる宝亀二年(771)以前は東山道所属であったため、 兵士の集結所が北武蔵に設けられていたこととかかわりがあると思われる。 また、古代、東北地方の支配拠点として築かれた多賀城(宮城県多賀城)の 城跡出土木簡には、当地を含む幡羅郡一帯から兵糧と思われる。米が搬入された 記録があることも参考になろう。古代、当社を奉祭した氏族については、 恐らく、当地一帯を支配した奈良氏であると考えられ、『成田氏系図』によると、 同氏は近隣の成田・別府・玉井氏などと並ぶ関東の名族の一つであった。 中世、当社は全国的に隆盛した熊野信仰の影響を受け、社名を奈良神社から 熊野神社に変更した。この社名変更の理由について『風土記稿』は、 奈良神社は『延喜式神名帳』に記載された神社であるが、衰退して熊野神社を合祀したためか、 あるいは、奈良神社が別の地にあって、それが破壊されたため熊野神社に合祀されたためかの いずれかであろうと記載している。恐らく古代に創建された奈良神社は廃絶したのではなく、 中世、その時流に合った熊野信仰を受容することにより社名を変えて存続したのであろう。 江戸後期になると、中世以来永く社名を熊野神社としてきた当社は、復古の思想興隆により、 社名を古代の奈良神社に復した。 当社拝殿内に掛る天保年間(1830-44)の「武蔵国四十四坐拝 式内社」の額は、 白川家門人の中村平兵衛ほか四名が奉納したもので、これらの者たちも 社名復古に一役買ったものと思われる。 「埼玉の神社」埼玉県神社庁発行より (駐車スペースあり) |