<由緒> 『風土記稿』は、明治初年に現社名となった当社を「三島千勝五霊合社 村の鎮守なり 迎盛院持 下二社同じ、末社稲荷 天神 子の権現 ○雨宮社 ○浅間社」と載せている。 当社は古利根川の河岸にあり、往古は渡し場があった。三島の神は「和多志の神」 とも呼ぶところから渡し場の守護神として祀られたものであろう。 また、千勝の神は、都都古別(つつこわけ)の神とも呼ばれ、 福島県から茨城県に流れる久慈川に沿って祀られ、河の神・農の神といわれる。 更に五霊(御霊)の神は、近世、当地に柿沼河岸が設けられて交通の要衝となったことから、 往来の人々と共に侵入する疫神、更に怨霊を鎮めるために祀られたのであろ。 このように、川との関係により勧請されたと考えられるが、その時期は不明である。 ただし、寛延元年(1748)没の別当迎盛院宥海が奉納した三柱の金幣が内陣にあり、 江戸期の中ごろには、今日の姿で祀られていたことがわかる。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より |
子の権現社 雨宮神社 浅間 小御嶽 ------------------------- ------------------------- 明治41年(1908)建立 付き尾形狛犬 |
<参拝メモ> JR東北線久喜駅西に鎮座している。 境内の末社、子の権現社の壁に履物が吊り下げられているのが印象的だった。 子の権現は足の神様である。足の病の息災、治癒を願って下げたのであろうが、 同じ病に苦しむ自分にとって、身につまされる思いだった。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より (駐車スペース有) |