<由緒> 『関八州古戦録』によると、天正年間、小田原北条を討つため、豊臣秀吉は 前田利家の軍勢を東山道から関東へ向かわせた。そのころ北条方の 松山城主上田憲定は小田原城に立て籠もり、松山城は城代山田伊賀守以下 五千余名の家臣が守っていたが、七万の前田軍には勝ち目がなく、無血開城となった。 一方、憲定は小田原城落城後、単身松山城にたどり着いたものの、 すでに城は敵の手に落ち、やむなく東秩父の御堂村の日蓮宗浄蓮寺へ逃れ、かくまわれた。 浄蓮寺は上田能登守が病気平癒を行って以来、縁のある寺で、『風土記稿』にも 「病悩たちどころに平癒することを得たり。夫によりて松山の一族悉く改宗して 浄蓮寺の檀那となる」とあり、松山城と深い関係があった。 しかし浄蓮寺は朱印地を受けていたため、長くはかくまえず、憲定は寺との関係を断って 小川の曹洞宗大梅寺の檀那となるとともに浄蓮寺に祀ってあった運慶作と伝える 一尺一寸の鬼子母神像を持って御堂村から、かって家臣であった関口忠左衛門を頼り、 皆谷村に移って曹洞宗光官寺を建立し、境内に鬼子母神社を建てた。 これが当社の創建である。 また、憲定は、名字も上田姓から関口姓に改め、関口忠左衛門は自らの居屋敷を明け渡し、 後へ退いて幕府の目を逃れた。 明治になり、神仏分離によって当社は光官寺から離れ、隣接地に境内を設け 天児安神社と社号を改めた。 「埼玉の神社・埼玉県神社庁発行」より |
鬼子母神像 宝暦7年 |